訂正する力!

 

訂正する力は訂正可能性の哲学の実践編ということもあり、具体的な事柄を平易な表現で書いてあるのでスラスラ読めてしまう。だから、読んでいるときは「なるほど!」と納得しながら引っかかりがなく読めてしまうのだが、この実践はとても難しいものを含まれていると感じた。単に「やるだけやってダメなら訂正すれば良い」とか「3歩進んで2歩下がるでいい」みたいなお気楽なことだけを言ってるわけではなく、むしろ、困難な道のりが訂正する力だと感じた。

 

特に感銘を受け、印象に残った部分が「リセットではなく訂正のためにはサンクコストを保存する」というところだ。

 

サンクコストが厄介な問題であるのは、例えばナニワ金融道という漫画を見ればよくわかる。初期のエピソードで零細経営者が傾いた事業を維持するために街金に借金を申し込むが、既に多重債務なので家族の娘を保証人につけろと言われる。それにより融資は実行されるが倒産してしまい、保証人になった娘も破綻していくというエピソードだ。

合理的に考えるなら、事業をたためば家族の破綻は免れた。しかし、今まで苦労してやってきた仕事だというサンクコストが邪魔をして誤った判断をしてしまう。本人だけではなく家族すらも犠牲になる。ナニワ金融道のエピソードはこのようなものが多く、それを街金側は「非合理でアホやな」と馬鹿にしている。読んでいる側も、金を借りる方の判断のまずさがわかる。つまり、サンクコストにこだわりすぎると身を滅ぼすと強く感じてしまう。だから、僕はサンクコストという言葉はとてもネガティブな言葉だと思っている。情緒に囚われず合理的であれというのは、営業関係の仕事をすると身をもって知ることが多い。

 

特に20代の頃は合理的であることはただ無条件で素晴らしいと感じていたし、今もそういう気分が残ってはいる。「日本は無駄が多いから経済停滞し始めたのだ」という言説はバブル崩壊以後盛んに繰り返された。実際に経済学的にはそうなんだろう。僕は1981年生まれなので、思春期はバブル崩壊以後であり、中高生の頃は「これからは若い世代の君たちが新しい日本社会を作るんだ」とか、そういう言葉を学校の先生などから聞かされた。日本はしがらみや因習が多くそれが失敗の原因なのだと。

 

これは今から思うと若者は個人の経験が少ないゆえに個人的なサンクコストが皆無だから合理的に社会を変えれるという意味だったんだろう。訂正する力でも触れられているが、この種の「若者力への期待」は、サンクコストの訂正が機能していない。「ゼロベースでリトライしてください」というのはリレーのバトンを渡してるわけではなく単なる無責任だ。日本の年長者から若者へのアドバイスはこの種の無責任さが目立つ。(どんどん年長者になっていく自分への自戒を込めて…)

 

ビジネスの世界では若い新興ベンチャーが合理的に拡大していくことはままある。競争があり淘汰され、製品やサービスは代替されていく。だから、その世界では合理性の価値観は正しい。

 

しかし、国や社会はそうではない。簡単に代替できないし、淘汰されるということは滅亡するということだ。ガラゲーユーザーが品物がないから、スマホに変えるのとは話が違う。

 

いま、日本の新自由主義な右派的言説が隆盛なのは、おそらくこういう背景で、日本の国力が低下し経済のような合理性の淘汰に飲み込まれる危機感もあるのだと思う。そして、日本スゴイ愛国右派は逆に日本はまだまだ力があり強いから負けないという発想だ。だから、過去の歴史修正をし、日本は無謬で強い国であることにこだわりがあるのではないだろうか。

 

これらを否定するのに日本社会に蔓延している「経済的合理性こそが至上の価値」の考えをを倒すのは難しい。僕らは生活する上で経済に否応なく巻き込まれて生活している。得体のしれない事をしていても、経済的に自立できていれば「一人前」扱いしてもらえる。それどころか、YouTuberなどは大きく稼げるとなれば、社会的にも承認されスゴイ人となる。多くを稼ぐということは効率的に価値を生み出すことなので、合理的な方が強い。サンクコストは合理的判断の足枷である。

 

そのサンクコストを保存していくこととはどういうことだろうか。持ち続ける保持ではなく保存。保存というと今は手元になくても、何か必要なときに出せる状態、しまってある状態、キープしているなどと言葉からは感じる。

 

訂正する力では、過去の再解釈をし、訂正し続けることだと言っている。そしてそれが出来るのが人文学の力なのだと。過去の再解釈は修正とは違う。事実は事実として残し、解釈を変更する。

 

これもまた実践が難しい。例えば野球選手が高校時代のスパルタ的環境を笑い話でエピソードトークすることがある。「めちゃくちゃなことされたけれど、結果良かった部分もある」という結論で語られる。これは訂正する力が働いているのかといえば、僕はそうではないと思う。ただ、こういう「しんどかった経験が今の自分のためになっているし、むしろよかった」的な気持ちは僕にもあるが、それは単なる記憶の書き換え、一部忘却であり、もっと丹念に事実を踏まえ、別の軸から再構築していく試みを訂正する力と呼ぶのだと思う。

 

本書ではその軸もまた訂正され続けるものだと説く。つまり、コレクトではなく、コレクティングだと。一つの例として、東さんの経営経験が語られる。ビジネスは売上という分かりやすい指標があるので、訂正が効きやすいと。

 

これには完全に同感で、日本で学生=未熟、社会人=成熟のイメージが強いのは、仕事やビジネスは常に外部から評価し続けられるから、その違いを言っているんだと思う。ビジネスは売上などのシンプルな指標があるから分かりやすい。しかし、社会はそうではない。こういう外部からの指標をもとに訂正を目指そうというのが、国際◯◯機関における▲▲指数とかで、それで右往左往してれば社会が良くなるとは思えない。そもそもこの種の公平な裁定者がいてジャッジしてくれる的な話も訂正する力では否定されている。

 

東さんが本を読んで考えて欲しいと言っていたが、優しい文体でわかりやすく書いてあるけれど、考えるとキリがない複雑なことを本書では言っている。文体に騙されてはいけない。この本を読んでも何もわからない。考えて考える。一度出た答えが正しいとか正解とかこだわらずに訂正を続けるしかないんだろうな。

 

 

 

おまけ

 

過去を保存しつつ、現代風に訂正してるかっこいい「訂正する力」バンドを見つけたので、おすすめしておきます。

 

 

シベリアの伝統音楽×エレクトロニカ!ボーカルとメロディが素晴らしく、ツボです。