有や無や「遊びから考える巨人の星論」について

有や無やを読んで、この人たちマジですげーなと思った。文章、紙面がしっかりしている。はっきり言って舐めていた。qppさんの靖國参拝記は控えめに言って名文。各方面で絶賛されるのもよくわかる。

 

だが、僕はここで言及したいのはhideakiさんの巨人の星論だ。だいたい、他の執筆者はシラス・ゲンロンに因んだことを書いているのに、巨人の星の話は気合いが入っている。野球マンガの古典的名作だが、新・巨人の星はむろん、巨人の星を読んだ人も有や無やの読者には少ないのではないか。当然僕は読んでいる。だから、秒で「伴宙太」の誤字も発見できる。

 

巨人の星はだいたい覚えているが、新・巨人の星はあんまり覚えてない。完結まで読んだのかすら、あやしい。近くのマンガ喫茶に行って読もうかと思ったが在庫がない。ならば、覚えている限りで書こうとじゃないか。

 

ちなみに、hideakiさんか論じたテーマを僕が十分に理解しているかは甚だ疑問なレベルなので、見当違いな文かもしれない。しかし、大切なのは星hideaki雄馬の投じた血染めの原稿に対して、バットを振ることだ。そう思い込んで書く。

 

 

「思い込んだら試練の道を行くが男のど根性」

 

この有名すぎる主題歌が巨人の星を表している。

星飛雄馬という男はとにかく思い込んでる男なのだ。巨人の星は魔球マンガだ。なぜ、彼が魔球にこだわるかというと、当時巨人に在籍していた金田正一(通称カネやん)に「変化球を教えてください!」と申し出たところ、「変化球は全てアメリカが発明した。星よ。お前はオリジナルの変化球を作れ。」という趣旨の返事を受けて、「思い込んだ」結果の産物である。

 

星飛雄馬の飛雄馬は「ヒューマン」に由来することはhideakiさんの文にも触れられているが、星飛雄馬はあまりに観念的で人間として何かが欠落している。ある種の道徳や倫理観には忠実なのだが、人間らしいファジーな感性がない。しばしば指摘されることだが、魔球が打たれるまで魔球一本槍の投球をし、その魔球が打たれるとショックでひどく落ち込み、遁走したりする。

 

星飛雄馬は「エモい」男なのだ。純粋で感情に忠実だ。父・星一徹の教えを内面化しすぎて勝負にこだわりすぎる。星一徹星一徹で問答無用にやばいやつで、野球に熱中するあまりモラル崩壊して魔送球を編み出す。魔送球とは打者走者に当たるような球を三塁から投げるが、鋭く変化するために当たらずに一塁手に送球できるという技術だが、のちの巨人の監督になる川上哲治咎められ巨人を去ることになる。

 

星飛雄馬は高校生まで孤独だった。部活動に入ることもなく、父親と特訓する日々。野球はチームスポーツなのだが、彼にとっては個人種目だった。とにかく速いスピードボールを投げれば、巨人に入ることができる。そう信じて日々の練習に励んでいた。今なら、中南米の選手がとにかく160キロ投げれれば、メジャーのスカウトに発見されるはずと信じているようなものだろうか。

 

高校に入学し初めて全くの他人と野球する事ができる。ここで友人の伴宙太を得たのは彼にとって幸せだった。伴宙太を得なければ、飛雄馬の孤独はさらに深いものになっていた。その伴も一緒に巨人に入団したのはいいが、父・星一徹の策略によって中日にトレードされてしまう。作者の梶原一騎は常に星飛雄馬を孤独にしようとする。その孤独が飛雄馬を成長させ飛躍させると信じているのだろう。

 

しかし、飛雄馬は孤独により野球の力を伸ばしたが、人間的な成長ができたかは疑問だ。ときどき、自分は何なのか、野球をする機械ではないか、と自問自答するが、結論は野球にのめり込むしかないとなる。結局のところ孤独を乗り越えたと言えない。目を逸らしてるだけだ。

 

だけども、これを僕らは笑うことができない。僕個人でも、本来は別のところに問題があるのに、「今は仕事に集中するだけだ。そうすれば乗り越えられる」と信じて行動した時期もある。視野狭窄になり、とにかく目の前の自分の仕事を!という心理は現代でもよくある現象だ。そして、巨人の星時代の星飛雄馬はまだ未成年である。高校1年時に中退して入団している。そう考えると、とても人間らしい、ありふれた行動だと思える。孤独が人を成長させると信じられた時代があり、一匹狼、男は黙ってサッポロビール的な美意識がかつてはあった。

 

だが、それは実は間違っていたと巨人の星では逆説的に示される。星飛雄馬は親友と離れて、恋人とも死別し、父は敵となり、徹底的な孤独に追い込まれた結果、左腕に強い負担のある大リーグボール3号を多投し、左腕が破壊され孤独に引退して終わるのだ。

 

そして新・巨人の星である。

 

この物語は打者・星飛雄馬として復活するところから始まる。星飛雄馬の破壊された左腕が利き手なのは、星一徹の矯正によるもので、実は先天的には右利きだったという秘密から投手として再生する。

 

冒頭に示した通り、新・巨人の星はあまり記憶にないのだけど、印象に残っているシーンがある。

 

打者として練習しているときに、サンダースと呼ばれる外国人コーチがバッティングピッチャーをしていた。彼は「ソトコーバ」(カープに所属していた外木場投手。シュートボールの名人)などと言いながら、主力投手のピッチングを真似て投げていた。

 

そのあとに星飛雄馬は「(外国人に対して)感謝を伝える言葉を知らないが、老人のマッサージは昔よくやっていた」と言って練習相手のお礼にマッサージをする。このシーンはとても印象深い。はっきり言って自分勝手でなんでもシリアスに捉えて、チームに迷惑かけようがお構いなしの男が人間らしい行動をしている!!

 

勝負に敗れ、孤独に苛まれ、いっときは父を恨んだ男が、本当に孤独になったときに、敗北も父もそれまでの人生も受け入れて、かつて父におそらくは無理矢理やらされていたマッサージを自ら他人に申し出る。星飛雄馬の「人間復活」である。

 

人間の成長は環境だけでは成り立たない。孤独だけでは人を強くしない。時間の流れは一見、無駄に思えるが、それこそが必要なのだろう。成熟とは無駄とも思える多大な時間を過ごし、自らの過去を素直に引き受けることから始まるのではないだろうか。

 

そんなことをhideakiさんの論考を読んで感じたよ。という感想文でした!