訂正する力!

 

訂正する力は訂正可能性の哲学の実践編ということもあり、具体的な事柄を平易な表現で書いてあるのでスラスラ読めてしまう。だから、読んでいるときは「なるほど!」と納得しながら引っかかりがなく読めてしまうのだが、この実践はとても難しいものを含まれていると感じた。単に「やるだけやってダメなら訂正すれば良い」とか「3歩進んで2歩下がるでいい」みたいなお気楽なことだけを言ってるわけではなく、むしろ、困難な道のりが訂正する力だと感じた。

 

特に感銘を受け、印象に残った部分が「リセットではなく訂正のためにはサンクコストを保存する」というところだ。

 

サンクコストが厄介な問題であるのは、例えばナニワ金融道という漫画を見ればよくわかる。初期のエピソードで零細経営者が傾いた事業を維持するために街金に借金を申し込むが、既に多重債務なので家族の娘を保証人につけろと言われる。それにより融資は実行されるが倒産してしまい、保証人になった娘も破綻していくというエピソードだ。

合理的に考えるなら、事業をたためば家族の破綻は免れた。しかし、今まで苦労してやってきた仕事だというサンクコストが邪魔をして誤った判断をしてしまう。本人だけではなく家族すらも犠牲になる。ナニワ金融道のエピソードはこのようなものが多く、それを街金側は「非合理でアホやな」と馬鹿にしている。読んでいる側も、金を借りる方の判断のまずさがわかる。つまり、サンクコストにこだわりすぎると身を滅ぼすと強く感じてしまう。だから、僕はサンクコストという言葉はとてもネガティブな言葉だと思っている。情緒に囚われず合理的であれというのは、営業関係の仕事をすると身をもって知ることが多い。

 

特に20代の頃は合理的であることはただ無条件で素晴らしいと感じていたし、今もそういう気分が残ってはいる。「日本は無駄が多いから経済停滞し始めたのだ」という言説はバブル崩壊以後盛んに繰り返された。実際に経済学的にはそうなんだろう。僕は1981年生まれなので、思春期はバブル崩壊以後であり、中高生の頃は「これからは若い世代の君たちが新しい日本社会を作るんだ」とか、そういう言葉を学校の先生などから聞かされた。日本はしがらみや因習が多くそれが失敗の原因なのだと。

 

これは今から思うと若者は個人の経験が少ないゆえに個人的なサンクコストが皆無だから合理的に社会を変えれるという意味だったんだろう。訂正する力でも触れられているが、この種の「若者力への期待」は、サンクコストの訂正が機能していない。「ゼロベースでリトライしてください」というのはリレーのバトンを渡してるわけではなく単なる無責任だ。日本の年長者から若者へのアドバイスはこの種の無責任さが目立つ。(どんどん年長者になっていく自分への自戒を込めて…)

 

ビジネスの世界では若い新興ベンチャーが合理的に拡大していくことはままある。競争があり淘汰され、製品やサービスは代替されていく。だから、その世界では合理性の価値観は正しい。

 

しかし、国や社会はそうではない。簡単に代替できないし、淘汰されるということは滅亡するということだ。ガラゲーユーザーが品物がないから、スマホに変えるのとは話が違う。

 

いま、日本の新自由主義な右派的言説が隆盛なのは、おそらくこういう背景で、日本の国力が低下し経済のような合理性の淘汰に飲み込まれる危機感もあるのだと思う。そして、日本スゴイ愛国右派は逆に日本はまだまだ力があり強いから負けないという発想だ。だから、過去の歴史修正をし、日本は無謬で強い国であることにこだわりがあるのではないだろうか。

 

これらを否定するのに日本社会に蔓延している「経済的合理性こそが至上の価値」の考えをを倒すのは難しい。僕らは生活する上で経済に否応なく巻き込まれて生活している。得体のしれない事をしていても、経済的に自立できていれば「一人前」扱いしてもらえる。それどころか、YouTuberなどは大きく稼げるとなれば、社会的にも承認されスゴイ人となる。多くを稼ぐということは効率的に価値を生み出すことなので、合理的な方が強い。サンクコストは合理的判断の足枷である。

 

そのサンクコストを保存していくこととはどういうことだろうか。持ち続ける保持ではなく保存。保存というと今は手元になくても、何か必要なときに出せる状態、しまってある状態、キープしているなどと言葉からは感じる。

 

訂正する力では、過去の再解釈をし、訂正し続けることだと言っている。そしてそれが出来るのが人文学の力なのだと。過去の再解釈は修正とは違う。事実は事実として残し、解釈を変更する。

 

これもまた実践が難しい。例えば野球選手が高校時代のスパルタ的環境を笑い話でエピソードトークすることがある。「めちゃくちゃなことされたけれど、結果良かった部分もある」という結論で語られる。これは訂正する力が働いているのかといえば、僕はそうではないと思う。ただ、こういう「しんどかった経験が今の自分のためになっているし、むしろよかった」的な気持ちは僕にもあるが、それは単なる記憶の書き換え、一部忘却であり、もっと丹念に事実を踏まえ、別の軸から再構築していく試みを訂正する力と呼ぶのだと思う。

 

本書ではその軸もまた訂正され続けるものだと説く。つまり、コレクトではなく、コレクティングだと。一つの例として、東さんの経営経験が語られる。ビジネスは売上という分かりやすい指標があるので、訂正が効きやすいと。

 

これには完全に同感で、日本で学生=未熟、社会人=成熟のイメージが強いのは、仕事やビジネスは常に外部から評価し続けられるから、その違いを言っているんだと思う。ビジネスは売上などのシンプルな指標があるから分かりやすい。しかし、社会はそうではない。こういう外部からの指標をもとに訂正を目指そうというのが、国際◯◯機関における▲▲指数とかで、それで右往左往してれば社会が良くなるとは思えない。そもそもこの種の公平な裁定者がいてジャッジしてくれる的な話も訂正する力では否定されている。

 

東さんが本を読んで考えて欲しいと言っていたが、優しい文体でわかりやすく書いてあるけれど、考えるとキリがない複雑なことを本書では言っている。文体に騙されてはいけない。この本を読んでも何もわからない。考えて考える。一度出た答えが正しいとか正解とかこだわらずに訂正を続けるしかないんだろうな。

 

 

 

おまけ

 

過去を保存しつつ、現代風に訂正してるかっこいい「訂正する力」バンドを見つけたので、おすすめしておきます。

 

 

シベリアの伝統音楽×エレクトロニカ!ボーカルとメロディが素晴らしく、ツボです。

有や無や「遊びから考える巨人の星論」について

有や無やを読んで、この人たちマジですげーなと思った。文章、紙面がしっかりしている。はっきり言って舐めていた。qppさんの靖國参拝記は控えめに言って名文。各方面で絶賛されるのもよくわかる。

 

だが、僕はここで言及したいのはhideakiさんの巨人の星論だ。だいたい、他の執筆者はシラス・ゲンロンに因んだことを書いているのに、巨人の星の話は気合いが入っている。野球マンガの古典的名作だが、新・巨人の星はむろん、巨人の星を読んだ人も有や無やの読者には少ないのではないか。当然僕は読んでいる。だから、秒で「伴宙太」の誤字も発見できる。

 

巨人の星はだいたい覚えているが、新・巨人の星はあんまり覚えてない。完結まで読んだのかすら、あやしい。近くのマンガ喫茶に行って読もうかと思ったが在庫がない。ならば、覚えている限りで書こうとじゃないか。

 

ちなみに、hideakiさんか論じたテーマを僕が十分に理解しているかは甚だ疑問なレベルなので、見当違いな文かもしれない。しかし、大切なのは星hideaki雄馬の投じた血染めの原稿に対して、バットを振ることだ。そう思い込んで書く。

 

 

「思い込んだら試練の道を行くが男のど根性」

 

この有名すぎる主題歌が巨人の星を表している。

星飛雄馬という男はとにかく思い込んでる男なのだ。巨人の星は魔球マンガだ。なぜ、彼が魔球にこだわるかというと、当時巨人に在籍していた金田正一(通称カネやん)に「変化球を教えてください!」と申し出たところ、「変化球は全てアメリカが発明した。星よ。お前はオリジナルの変化球を作れ。」という趣旨の返事を受けて、「思い込んだ」結果の産物である。

 

星飛雄馬の飛雄馬は「ヒューマン」に由来することはhideakiさんの文にも触れられているが、星飛雄馬はあまりに観念的で人間として何かが欠落している。ある種の道徳や倫理観には忠実なのだが、人間らしいファジーな感性がない。しばしば指摘されることだが、魔球が打たれるまで魔球一本槍の投球をし、その魔球が打たれるとショックでひどく落ち込み、遁走したりする。

 

星飛雄馬は「エモい」男なのだ。純粋で感情に忠実だ。父・星一徹の教えを内面化しすぎて勝負にこだわりすぎる。星一徹星一徹で問答無用にやばいやつで、野球に熱中するあまりモラル崩壊して魔送球を編み出す。魔送球とは打者走者に当たるような球を三塁から投げるが、鋭く変化するために当たらずに一塁手に送球できるという技術だが、のちの巨人の監督になる川上哲治咎められ巨人を去ることになる。

 

星飛雄馬は高校生まで孤独だった。部活動に入ることもなく、父親と特訓する日々。野球はチームスポーツなのだが、彼にとっては個人種目だった。とにかく速いスピードボールを投げれば、巨人に入ることができる。そう信じて日々の練習に励んでいた。今なら、中南米の選手がとにかく160キロ投げれれば、メジャーのスカウトに発見されるはずと信じているようなものだろうか。

 

高校に入学し初めて全くの他人と野球する事ができる。ここで友人の伴宙太を得たのは彼にとって幸せだった。伴宙太を得なければ、飛雄馬の孤独はさらに深いものになっていた。その伴も一緒に巨人に入団したのはいいが、父・星一徹の策略によって中日にトレードされてしまう。作者の梶原一騎は常に星飛雄馬を孤独にしようとする。その孤独が飛雄馬を成長させ飛躍させると信じているのだろう。

 

しかし、飛雄馬は孤独により野球の力を伸ばしたが、人間的な成長ができたかは疑問だ。ときどき、自分は何なのか、野球をする機械ではないか、と自問自答するが、結論は野球にのめり込むしかないとなる。結局のところ孤独を乗り越えたと言えない。目を逸らしてるだけだ。

 

だけども、これを僕らは笑うことができない。僕個人でも、本来は別のところに問題があるのに、「今は仕事に集中するだけだ。そうすれば乗り越えられる」と信じて行動した時期もある。視野狭窄になり、とにかく目の前の自分の仕事を!という心理は現代でもよくある現象だ。そして、巨人の星時代の星飛雄馬はまだ未成年である。高校1年時に中退して入団している。そう考えると、とても人間らしい、ありふれた行動だと思える。孤独が人を成長させると信じられた時代があり、一匹狼、男は黙ってサッポロビール的な美意識がかつてはあった。

 

だが、それは実は間違っていたと巨人の星では逆説的に示される。星飛雄馬は親友と離れて、恋人とも死別し、父は敵となり、徹底的な孤独に追い込まれた結果、左腕に強い負担のある大リーグボール3号を多投し、左腕が破壊され孤独に引退して終わるのだ。

 

そして新・巨人の星である。

 

この物語は打者・星飛雄馬として復活するところから始まる。星飛雄馬の破壊された左腕が利き手なのは、星一徹の矯正によるもので、実は先天的には右利きだったという秘密から投手として再生する。

 

冒頭に示した通り、新・巨人の星はあまり記憶にないのだけど、印象に残っているシーンがある。

 

打者として練習しているときに、サンダースと呼ばれる外国人コーチがバッティングピッチャーをしていた。彼は「ソトコーバ」(カープに所属していた外木場投手。シュートボールの名人)などと言いながら、主力投手のピッチングを真似て投げていた。

 

そのあとに星飛雄馬は「(外国人に対して)感謝を伝える言葉を知らないが、老人のマッサージは昔よくやっていた」と言って練習相手のお礼にマッサージをする。このシーンはとても印象深い。はっきり言って自分勝手でなんでもシリアスに捉えて、チームに迷惑かけようがお構いなしの男が人間らしい行動をしている!!

 

勝負に敗れ、孤独に苛まれ、いっときは父を恨んだ男が、本当に孤独になったときに、敗北も父もそれまでの人生も受け入れて、かつて父におそらくは無理矢理やらされていたマッサージを自ら他人に申し出る。星飛雄馬の「人間復活」である。

 

人間の成長は環境だけでは成り立たない。孤独だけでは人を強くしない。時間の流れは一見、無駄に思えるが、それこそが必要なのだろう。成熟とは無駄とも思える多大な時間を過ごし、自らの過去を素直に引き受けることから始まるのではないだろうか。

 

そんなことをhideakiさんの論考を読んで感じたよ。という感想文でした!

WBCの熱狂のあとで

WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)が終わって早くも1週間が経つ。

 

スポーツ国際大会の熱狂には、少し距離がある私だが、やはり日本チームのオールスターで挑む大会には血が湧き踊る。細やかなシーンでも、準決勝メキシコ戦に於ける91点ビハインドでの大谷翔平選手のツーベースヒットからの鼓舞、そして村上宗隆選手のサヨナラヒット、決勝戦での同点ホームラン、大谷翔平VSマイク・トラウトエンゼルスのスター同士の9回の対決と見どころはたくさんあり、連日ニュースで取り上げられ、日本全体が祝賀ムードに包まれ、それ自体はとても好ましいと思う。

WBCにはポジティブな点とネガティブな点がそれぞれあった。その中で最もポジティブだと思ったのはヌートバー選手の加入である。彼はアメリカ国籍のいわゆる日系ハーフである。実は招聘が発表された当時は一部の野球評論家やワイドショーコメンテーターが批判的であった。理由は彼が売り出し中の若手で本当に代表に呼べるほどの実力の持ち主なのかという疑問がメインだった。MLBNPBの成績を比較するのは難しい。特に打者成績の比較が難しい。イチロー選手のようにほとんど変わらない成績をMLBでも残す選手や、大谷翔平選手のように更に好成績をあげる選手もいれば、秋山翔吾選手や筒香嘉智選手のように全くの期待はずれに終わる選手もいる。全体のレベルでいえばMLB>NPBなのは明白なのだが、昨年度の打率.228ヌートバー選手がNPBの打率に換算するとどのくらいなのかは未知数である。

ただ、こういうヌートバー選手の加入を疑問視する意見の背後には日本の大げさに言えば排外主義的発想、マイルドに表現しても内輪の結束至上主義的な感性が働いているのではないかと勘繰ってしまう。

「日本の野球は自己犠牲、チームプレーに徹し、日本人同士だからこその阿吽の呼吸ができるのだ」というような感性である。

今回ヌートバー選手がそんな下らない幻想を鮮やかに打ち砕いてくれた。彼のプレイやパフォーマンスはとても素晴らしく、日本中を熱狂させた。もちろん彼の優れた人柄によるものが大きいと思う。ナショナリズムが高揚するスポーツ国際大会大会でヌートバー選手のような「異邦人」が日本チームに加入し、チームのムードを牽引し、フィーバーを起こしたことはこれからの日本社会にかなり良い影響が起こるんではないかと期待してしまう。

しかし、ネガティブな点もある。その中で最も大きいのは「嫌韓」である。

2002年のサッカーワールドカップが土壌になったともいわれる日本の「嫌韓」だが、また今回もあらゆる形で噴出した。韓国の代表チームのコ・ウソク投手が「大谷とは真っ向勝負がしたい。でも投げる場所がなければ、痛くないようにぶつけようかな。」と冗談まじりに発言したところ、ネットはこれでもか!と叩いた。

日本・韓国戦でキム・ユンシク投手がヌートバー選手にデッドボールを与えたところ、激しいブーイングが東京ドームに響いた。TwitterでもYahooコメントでも韓国への非難轟々である。そして、あまり話題になってないが、スポーツナビという野球のテキスト速報に「みんなのMVP」というコーナーがある。要は試合ごとの選手へのファン投票だ。確認できる方は見てほしいが、日本戦以外も含めて韓国チームの「みんなのMVP」は「該当者なし」ばかりである。わざわざ、日本が絡んでない試合まで、「お前らのチームにはMVPはいない」とクリックしに行く人たちが投票者の半分程度いるのだ。何がそこまで駆り立てるのか、全くわからない。だいたい野球チームを応援していれば、過去にたくさんの韓国人プレイヤーがチームに所属し主力の働きをしているし、カミングアウトの有無に関わらず、韓国・朝鮮をルーツにもつ選手はたくさんいる。帰化している選手もいれば、そうでない選手もいる。サンデーモーニングで強烈に反米反MLBのスタンスを貫いた張本氏を筆頭に「誇らしい日本野球」には韓国選手、在日コリアン選手は確実に含まれている。素直に自分が所属や縁のある代表チームを応援すれば良いのに、わざわざ、どこかを嫌う必要なんてない。

ただ、とても微妙なのはスポーツにはネタとしてのアンチという概念があり、これがエンターテイメントのスパイスとして機能している部分もあることだ。国内のリーグ戦ならば、やったり、やられたりのお互い様であるし、東京VS大阪の対立を敢えてやるから、巨人阪神戦は盛り上がる。ある種の因縁を敢えて強調することは自覚的にやる分には一種のネタとして楽しませるものであろう。問題は自覚的であることと、相互にやったり、やられたりの関係が対称的であること。今回のWBC東京ラウンドにはそれはなかった。全て日本がホームグラウンドてあり、多くの観客は日本チームを応援し、韓国は常にアウェイを強いられたからだ。そしてWBCは極めて商業主義的な大会なので、WBC大好き国家の日本は常に贔屓され続ける。3年後の2026年にも大会はあるが、また東京ラウンドは行われるだろう。公平性のために持ち回りでやることはない。

商業主義的なスポーツ大会というと、東京オリンピックのさまざまな問題を思い出し、ネガティブなものとして語られることも多いが、私はWBCに限っては商業主義だから悪いと一概にもいえない。全く平等でも公平でもない大会なのだが、野球はぶっちぎりでアメリカが強すぎるのだ。正しくはアメリカというよりMLBだ。今季から吉田正尚選手をはじめ日本で活躍した選手が目指す場所はMLBだし、何より大谷翔平選手も最初は日本球界を無視して直接MLBに向かおうとしていた。世界2位のリーグをもつ日本ですら、この有り様であるから他国は推してしるべしである。だから、MLBのシーズンの影響を最小限にすること、高額契約選手の疲労や故障に最大限に配慮すること、といった要件を守れないとトップ選手たちが参加する国際野球大会は不可能だ。いちおう中立的な組織が主催する国際大会もあることはある。例えば2024年に開催予定のプレミア12がそうだが、MLBのシーズン後に行われ、多くの選手は疲労や故障リスクがあるのでMLB所属のトップ選手が集う大会とはならない。

日本だって、かつては国際大会のプロ派遣には消極的だった。若手選手や二軍選手を中心に派遣したりしていた。2004年のプロ野球再編問題や地上波放送の低迷、撤退を経てサッカーワールドカップに刺激され、国際大会に注力しはじめた。そもそも第一回WBCは今回と比べものにならないほど盛り上がってなく、イチロー選手の参加といくつかの奇跡が噛み合い優勝できたので事後的に注目されている。

スポーツの主役はプレイヤーだ。いくら形式だけ整えてもスター選手の参加が無ければ盛り上がる事はない。決勝戦のクライマックスが同じエンゼルスに所属するMVP獲得者のマイク・トラウト選手と同じくMVP獲得者の大谷翔平選手の対決だからこそ血潮がたぎる。東京オリンピックでも日本代表チームは優勝したが、アメリカ代表チームの投手は他国リーグで活躍している選手やマイナーリーグの選手たちだった。同じシチュエーションでも、東京オリンピック形式なら、横浜ベイスターズの山﨑康晃選手とオースティン選手になる。熱狂的な横浜ファン以外は前者の組み合わせの方が興奮するだろう。

あまりにも野球はMLBの力が強すぎる。この現実から始めるしかないと私は思う。だから、商業主義をどこまでも突き進んでWBCの存在をMLBが軽視できないような方向で発展するしかないと考える。

(主催が軽視するというのも意味不明な表現だが。)

具体的には中国や欧州での野球人気が加熱し、放映権ビジネスの発展などになるだろう。日本はここに協力するべきで、欧州や中国に日本選手を派遣したり、独立リーグに受け入れの間口を広げたりするべきだ。NPBMLBと比べて経済的に弱い構造にある。だから、現状だと各球団からの経済的支援が必要だろう。今回、世界一となったのだから、その世界一に対するノブレス・オブリージュ的に世界の野球振興にもっと積極的になって欲しいと願う。

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めちゃくちゃ余談だが、「サムライJAPAN」という呼称はもともとは「WBC日本代表」という名前のグッズ等を作ることがMLBとの規定から出来なかったことが原因の「ハック」的なやり方である。

ただ結果的に呼称を継続することにより、盛り上がることが出来た。商業主義のたまものだが、うまく作用することもある。

さらに余談。WBCの東京ラウンドはめちゃくちゃ日本有利だったことに言及しているメディアが少ない!だいたい日本は全部19時開始の日程だ。これは当然、放送が理由。他国は19時から23時まで試合をしたあとに、翌日のお昼12時にまた試合とか苦労する日程だった。これは改善すべきところ。無邪気に日本を応援するのもいいが、あまりのアンフェアさに申し訳なさが勝った。

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★おまけ★

ゲンロンで野球イベントするなら?を勝手にブレストする。

①石戸諭さんによる「栗山英樹論」

シラスでやったけれど、ゲンロンカフェなら栗山さんを呼ぶこともワンチャンある!?

②スポーツとナショナリズム

拙文の「嫌韓」とか香山リカさんの「ぷちナショナリズム」的なトーク国威発揚ウォッチの第一人者がスポーツに弱いので期待出来ないが、現在の日本でナショナリズムを発散できる機会って国際大会になると思うんですよね。

③スポーツとビジネス

東京オリンピック汚職まみれ、2002年のサッカーワールドカップに作った札幌ドーム問題。公金を投入したからこそ禍根が残るもの、うまくいくもの。逆にMLBの商業イベントだからこそWBCがうまくいった部分、問題が残る部分。こういうものを比較してトークするのは面白いんじゃないだろうか。

国威発揚ウォッチ オフ会に行ってきたよ!

五反田キャップと辻田さんサイン入りドイツマスク

 

辻田真佐憲の国威発揚ウォッチオフ会に参加をし、とても楽しい時間を過せた。ぶっちゃけ、第一回オフ会くらいの時は「こういうノリは合わなそう」と忌避してましたが、1年も経たぬうちに、辻田さんの軽妙ながら真剣な語りにどんどん辻田chにのめり込んでしまい、ついに参加まで至った。

多くの方とお話しする機会を得て、自分自身の刺激にもなり参考にもなった。地方からの方、性別も年齢も幅広く普段なかなか踏み込めない内容の意見交換できる場は本当に素晴らしいと感じた。

シラスIDだけしかわからない方の実像を見ることもできたし、IDがわからない、あるいは聞きそびれた方もとりあえず同じ空間にいることでの信頼関係のもとに酔っ払いながらも真摯に会話を楽しめたと感じる。

会話のとっかかりに「IDなんですか?」と聞かれて、「僕はBarnetteです」と言うと、案外と皆さんご存知頂けたようで、東京ヤクルトスワローズの力は偉大である。さすがセリーグ連覇のチームだ。私のID2015年までヤクルトに在籍していたトニー=バーネット選手からの拝借である。

さまざまな方とお話し、二次会会場に移動する中、喫煙者同士で「どうやって東浩紀さんや辻田さんに興味を持ったのか?」と質問されて、そこで話したことが「面白いから、マイページにでも書いたら?」と言われたので、書いて綴ってみようと思う。正直、喫煙所って暖房もなくて寒いし、相手が吸い終わっても僕が饒舌に語るので、申し訳なかったと今は思う。ちなみにマイページ内のイチオシ番組欄に書こうと思ったら300文字以内の制限でブログに書いた。レビュー欄にこんな私的な文章投稿するのもおかしいので、こちらにします。

東浩紀さんやゲンロンに深く興味を持ったのはコロナ禍がきっかけである。巷間で語られる言説に違和感を持ち、左派が「ロックダウンも止むなし」という突き上げをしてきて、幻滅した。自由ってなんだ?人権ってなんだ?憲法ってなんだ?リベラルはそれを守るものではないのか。そう、今回のゲストの浜崎洋介さんの言う通り、「リベラル絶望組」が流れ着く先がここだった。

とはいえ、僕は別にリベラルな言説を好んで積極的に摂取してたわけではない。むしろネトウヨ崩れでもあり、「ホシュ絶望組」でもある。もともとは小林よしのりさんの熱心な読者だった人間だ。

81年生まれの僕はおぼっちゃまくん世代でもある。テレビアニメも見ていた。それがきっかけで小学校高学年から中学の初め頃に「ゴーマニズム宣言」に手を出す。この頃はオウムや薬害エイズを取り上げていて小林氏が右転回する前から読んでいて、彼の持ち味は今もそうだが、タブーに切り込む的な言説を漫画媒体で展開することに惹かれた。

福島のど田舎で育ったのになんで社会問題をテーマとした漫画に惹かれたかはもう一つ理由があり、それは父の存在なんだろうと思う。

私の祖父は辻田chでは目の敵である共産党員であった。祖父は僕が生まれる前に他界しているので面識はない。だが、おそらく父はその影響を受けていて、労働組合活動の役員などやっていたし、家族でニュースを見ていると反権力、反自民の立場で意見をよく言っていた。「付き合いだから」という理由で赤旗日曜版が家にあった。そして朝日新聞とスポーツ報知が家にある家庭に育った。共産、リベラル、読売巨人とよくわからない多様性があったが、反権力志向するなら巨人なんて応援するなよ、とも思っていた。父が巨人ファンなのは中畑清と同郷で中畑氏の兄弟と同級生っていうのも関係しているそうだが。なお、今は渡邉恒雄が嫌になり、楽天を応援しているらしい。

父は学はないが、社会には関心があった。それは祖父の影響だろう。だから僕も大人とは社会に関心を持つことだと思い、ゴー宣をその入り口にしたのだろう。そして、ゴー宣が右傾化すると、当然に僕も右傾化する。特に高校1年に出た戦争論には衝撃を受けた。これは面白い!素晴らしい本だ!と当時は本当に思っていたし、友達に貸したり布教したりした。

仲が良く、社会問題に関心がありそうな先輩にも勧めて貸してみたら、「なんだ!この右翼本は!!!」と激怒された。なんと、彼の家は共産党系であって、僕の自宅に赤旗日曜版を届けていたのは先輩の母親だったのである!偶然って怖いですね!!

父も息子が右翼になったと心配していた。思春期の息子がポルノが見つかり、父から怒られるというのはあると思うが、右派本が見つかり怒られるケースはあまりないだろう。小林氏と著作権裁判で揉めた上杉聰氏の講演を聞きに行って、小林よしのりがやばいことを知ったらしい。

ゴー宣の影響で辻田chでお馴染みの黄文雄なんかも読んでいたし、SAPIOと正論も買っていたし、辻田さんが中学時代に読んでいたという西部邁氏らとの座談本「国家と戦争―徹底討議」も「反米という作法」もバリバリ当時読んでいた。流石に嫌韓流は読んでない。嫌韓思想に染まりそうなこともあったが、ギリギリ踏みとどまったと思ってる。たぶん、共産党の血が役に立ったんだろう。やはり、血はアカい。

このような右派少年の遍歴があるので、辻田さんの言説はとても腹落ちする。当時は当時で戦争に対するコードが厳しくて、それに反発したい気持ちをつくる会系が吸い上げていた。当然ながら辻田さん程の読書量や深度ではないが、右派絶望組からリベラル絶望組の道程には親近感を覚えている。そして浜崎さんはその自分の中のリベラル言説を徹底的に見直して、今の言説を作り上げた事も敬服する。配信された番組内での一つの山場に「男女問題の議論」があった。

浜崎さんの言葉に納得しつつも「とはいえ」と言いたくなるのは、リベラル的社会規範が内面化してしまっているのもあるだろう。浜崎さんはおそらくはそういう内面を全て徹底的に疑い作り直し、新たな思考を作り直した方なんだろうと思う。

だいぶ道筋が逸れたが、今度は社会人になると社会問題から関心を失う。仕事が忙しく、読む本もビジネス書などになっていく、たまにゴー宣関係や気になった新書を読む程度でいた。そのうちに小林氏の言説にも完全にのめり込むこともできなくなり、社会は右傾化、嫌韓嫌中、ネトウヨの時代になった。その言説は下品で嫌だった。どんどん社会に関心を失っていった。ただ、ネットで見られる右派言説には距離を持ちたかったので、左派の意見も参考にせねばという意識もなんとなくあった。そして、安倍政権の後半と菅政権あたりには、自民政治にも嫌気がさし、リベラル的言説を好むことになった。

しかし、安倍晋三は自由を奪う!憲法軽視!と主張していた人たちが、今こそロックダウンを!と宣うさまには酷く辟易した。お前らのポリシーはなんなんだよ!!

そんなこんなで、2021年にコロナが流行り、勤務先でクラスターが発生した。そのおかげで10日くらい休みができた。コロナで高まった社会への違和感を解消しようとコロナ関連本を読んだり、動画を見たりしていた。

その中で小林よしのりが反コロナをやってるのは知っていたが、「今さら小林氏の言説に乗るのは大丈夫だろうか。しかし、今のコロナに対する一般の言論はおかしい。参考程度にならば」と思い小林氏と東浩紀さん、三浦瑠麗さんの鼎談番組を見た。そこで東さんの言説が素晴らしく感銘を受けた。人間社会の維持、社会が壊れることに警鐘を鳴らし、過激ではなく理知的に話す言葉にどんどん吸い込まれた。コロナそのものがインフルエンザと比べてどのくらい危険だとか危険じゃないとか、それは科学者の議論であり、僕が必要なのはそういう話ではなかった。東さんの言葉が必要だったと分かった。

そこから、シラス番組やVimeoアーカイブを見たり、東さんの本を読んで今に至る。学も無く、体系的に何か学習したこともなく、別に社会的になんら特別な貢献はしてないけれど、東さんや辻田さんの言説に救われている。だから、その応援をしたいと思い、今回オフ会に参加し、ゲンロン総会にも行く。

エヴァンゲリオンすら、まともに見てない、0年代サブカルを全く知らずにいたので東さんやゲンロン、ひいては辻田さんをを知ったのが遅れたが、それはそれで良い。

東京で働いていた頃、主に歓楽街目的で五反田駅に降りるとゲンロンの広告があった。その時に「右派言説ばっかり見てても仕方ないから、たぶんリベラルな人である東浩紀も関心持った方がいいかな」なんて思っていた。そんなこと思いながら、刹那の快楽に身を投じていた人間が、歳を重ね地元の福島にに帰省して五反田と物理的な距離が遠くなってから、五反田に関心を持つとは人生って不思議なものだ。

この場を借りて、単なる自分語りをしてしまったが、辻田オフ会で普段ID越しに見てる人の顔を見て話せたことは幸せなことでした。

僕のどうでもいい話に付き合ってくれたオフ会参加者の皆さまに感謝します。特に寒い中ダラダラと話に付き合ってくれ、この文章を書くきっかけになった@namayouさん、どうもありがとうございました。

2022年に聴いた良かった音楽

新年明けてしまいましたね。おめでとうございます。

22年ベスト○○に影響されて、2022年に出会った曲で良かった曲を紹介したいと思います。基本的には2022年にリリースされたものをピックアップしてます。全部で10曲あるよ!

 

① Places Your Debts / Jimmy Eat World 

2022年は戦争、テロと陰鬱な出来事が続き、少なくとも日本においてはコロナ問題の出口も見えず、陰鬱な年だったが、それを癒すような音楽がこれ。ボーカルののジム・アドキンスが語りかけるようなビデオも良い。

 

② We're at the Top of the World / The Juliana Theory

もともとは2000年にリリースされたEmotion Is Deadという名前からして激emo(20年前からの正しいemo用法)なアルバムに入っていた曲のreimagineバージョン。実は発表は2021年なのだが、2022年にひたすら聴いた曲。(というか、見過ごしてた)こっちのバージョンの方が原曲よりもメロディーの良さがわかる。ビデオはぱっと見、メタルなメイクをしたやつがワーワー言ってるけども、それは無駄なイントロなので、続けて聴いてください。そのあとの曲はとても爽やかですよ。

 

③ Live in blood / Fate Gear

ガールズバンドがそれなりに流行っているものの、ゴリゴリのメタル系は知らなかったので新鮮。しかも、ビデオのロケ地が戦艦三笠!国威発揚要素もあってgood!!

 

④ Stars / Andrew McMahon In The Wilderness

 

アンドリュー・マクマホンは同世代で、彼のキャリア初期のSomething Corporateから、かれこれ20年聴いてるわけだが、徐々にスタイルを変化させながらも、ポップでクォリティの高い曲を作る能力はずば抜けてるなぁとしみじみ思う曲。

 

 

⑤ sassya- / Eternal dance

サブスク漁ってたら、たまたま見つけたバンド。まだまだマイナーらしく、YouTubeの該当動画の再生数は執筆時現在わずか15回だ!他の曲は1万回から2万回程度再生されてるようだけども。アルバム通して良かったんだけど、この曲が一番お気に入り。

 

⑥ envy / Zanshin

とりあえずジャケが怖い。それがenvyっぽいのだが。メンバーチェンジしてからのenvyの安定感はすごい。本当に長く続けて欲しい。前に出たアルバムがめちゃくちゃ良かったので、これからも期待しまくれるベテランenvy。

 

⑦ Heavy / Black Honey 

セクシーな感じのダンスロックでいいっすよね。60年代なのか70年代なのかは俺にはよくわからないけれど、ある時代をイメージしたコンセプトのバンドで聴いてて気持ちいい。

 

⑧ The  Last Dragonborn/ Dragon Force

パワーメタルバンドのDragon Forceさんの新曲。この曲は早いテンポでピロピロしていなく、ミドルテンポで民族音楽的なアプローチもあって面白いんだが、それより、最後の竜の誕生を竜の力が歌うって愛知県でもこんなドラゴン推ししてこないだろう。ビデオもベースのメンバーチェンジをしてスタイルの良い女性が加入して場面、場面の絵はいいのだが、スクエアエニックスが好きそうな、ファイナルファンタジーな絵面で半袖だったりする。雪降ってるのに。こういうビデオを本気で作れるのはめっちゃ好きです。

 

Growing Up / The Linda Lindas

若いゆえのストレートなキャッチーな曲が気持ち良い。メンバー全員10代でアジア系とラテン系らしい。Z世代オブアメリカって感じだ。だが、それがいい。バンド名はブルーハーツの名曲から。

 

⑩(おまけ)Killing In The Name / The North Korean Military Chorus

Rage Against The Machineの大名曲をあの軍隊楽団に歌わせたmad。よくできてるし、歌詞がバリバリ反体制のアメリカの雄RATMだから、皮肉が何周もしてて味わい深い。

 

 

基本的には古い曲ばかり聴いてしまうし、聴くバンド自体もベテランが多いわけですが、こうしてお世話になった曲、YouTube動画でテンション上がった曲を記録してみました。ご覧になった方が一部の曲でも、気に入ったり共感してくれたら嬉しいですね!

古谷経衡×辻田真佐憲×東浩紀「夢としての『大東亜戦争』——80年代生まれが架空戦記を軸に語る開戦後80年」の感想

https://shirasu.io/t/genron/c/genron/p/20211208

とても刺激的な回であった。

コロナ禍の政治やマスメディアへの失望感から、東浩紀に辿り着いてしまった私は、過去動画は有観客で見ても、リアルタイムで見れた有観客回はなかった。

とても楽しませてもらった。

その記録として感想文を書く。

この番組の冒頭に東さんがいう、

「リベラルな団塊ジュニアが80年代生まれはどうしてネトウヨ世代になっちゃったんだい?」がとても私にはクリティカルな切り口だった。

私は81年生まれで、つくる会的、小林よしのり的言説に影響を受けた高校時代を過ごした。

辻田さんのように国民の歴史も買ったし、正論もたまに買っていたし、SAPIOも毎週買っていた。オフライン的ネトウヨだった時代がある。

ネトウヨ世代の当事者そのものとして、番組を楽しませてもらった。

古谷さん、辻田さんほど知的好奇心も旺盛でなく、特に【国民の歴史】は、なかなか難解であった記憶があるので、読み切ってない。

シミュレーションゲームは好きだったが、太平洋戦争ものではなく、ダービースタリオン信長の野望に行ったので、仮想戦記方面には縁がなかった。

辻田さんは、極めて能力が高い、当時の私の理想ともいえるネトウヨ的知的エリートである。私がもっと知的好奇心が高く、努力家であり熱心な性格であれば、辻田さんの下位互換のような高校生であっただろう。

(さすがに神皇正統記を暗唱できる能力はない)

梶谷さんとのイベントの「アジア的愚かさと公共性について」で東さんは「90年代は日本側からの加害証言が豊富に語られた時代だった」と言っていた。

これは当時の自分の感覚からいうと、自虐史観な時代であり、古谷さんの〈仮想戦記チャート〉の日教組的なものと捉えていた。

今はさすがにやっぱりアジア太平洋戦争は無茶苦茶な戦争で極めて愚かなものだと思っているし、従軍慰安婦も、吉田清治証言の人狩りはなかったとしても、きちんと韓国には謝罪と補償をすべきだと思うし、南京事件も規模はともかく虐殺は行われたと思っている。

おそらく、今は私はある程度は真ん中に戻っている(と信じたい)が、東さんの【80年代生まれネトウヨ世代問題】を私の体験から語りたいと思う。

90年代が日本側の加害証言の黄金期となったことに触れたが、学校教育の場でも影響は大きかった思うのだ。

私が小学生のときの体験である。

毎年8月ごろは授業で、はだしのゲンのアニメ映画やNHKの戦争ドキュメンタリーを見る時間があった。

はだしのゲンは漫画でもけっこう序盤はショッキングな原爆被害の絵が多いが、アニメはさらに刺激的だった印象がある。沖縄戦で銃殺された兵士の死体が斜面から力なく滑り落ちる映像は目に焼き付いて怖くなって一人では眠れずに親の布団に入って寝た。

私は割と太平洋戦争に興味がある方だったので、写真の原爆資料や漫画のはだしのゲンを読んだりしていたが、静止画と違って映像は辛かった。

また、小学生5年6年を受け持っていた当時20代後半の担任教師は「君が代は歌いたくないなら歌わなくてもいい、先生は口パクだから」と言っていた。

普段の言動は特にイデオロギッシュな印象はなく、はっきり政治的立場を明確にしたのはこの時だけだったから、記憶に残っている。

(面倒見が良い、柔和な性格の良い先生だった。)

そして、オウム真理教薬害エイズ問題で低年齢時に親しんでいた小林よしのりさんが活躍してると知って、ゴーマニズム宣言を読み出した。

ちょうどSAPIOに移った新ゴーマニズム宣言の1巻から読み出して、【戦争論】まで一直線である。

12月11日の朝の突発配信で東さんは「日本はナショナリズムを語るのが難しい国」と言った。

当時の私にはその難しさを「気にせず語っていいんだぜ!」とゴーマンかました小林さんがとにかく刺さったのだ。

古谷さん、辻田さんはおそらく同時並行で仮想戦記も読み、ナショナリズムの欲望を発散すると同時に、ハイコンテクストな仮想戦記を読むための、史実的知識も得ていたのだろう。

「気持ちはわかるが、『アジアかは解放されたから実質勝利』は冷静に考えて乗れねえよ」という感想もどこかで抱いていたのではないか。

これが保守系経由でのルートで入ったのに、リベラル、中道的スタンスが取れる彼らの強さだと思う。

私はネットに触れたのが遅かったので、オフライン的ネトウヨネトウヨ言説を見たら、ヘイトが蔓延していて、ひどくがっかりしてそういう言説から離れた。

石戸諭さんの【百田尚樹現象】でも、ネトウヨ的言説の源流をつくる会に求めていた。たしかに源流はそうだろう。ネットによって、シンプルな2chコピペが愛国的娯楽として消費され、つくる会の【教科書の教えない歴史】が目的とした「日本人としての誇り」が過剰に持て囃され、嫌韓嫌中ブームを呼んだ。

(嫌韓流も影響あっただろうが、私は読んでないので語れない。)

都合の良い知識だけを仕入れて、同じ構造の話を延々と再生産することでネトウヨが増幅されてたと思う。しかし、古谷さん、辻田さんは都合の良い知識だけではなく、広い知識を網羅しつつ、ネトウヨ言説とも距離をとり、その上で愛国的娯楽を楽しんでいるように思える。

私の実体験でも、反日的、自虐的とも言えなくもない教育が90年代はあった。【戦争論】【インターネット】の両輪で世間のネトウヨ的言説は増幅され続けてきた。

辻田さんは「やばいものを圧倒的知識量で抑え込んでいる」と表現した。

リベラル側も「正しく知識をインストールすればネトウヨから抜けられるはずだ。」という、ファクトチェック系対応をしばしば反論として行う。

しかし、興味のない勉強はつまらないし、頭に入らない。辻田さんは「百田さんでも司馬さんでもいいから歴史を物語として書かないと国民にインストールされない」と言った。

私が影響をかつて受けた【戦争論】も物語的であるからこそ、情念に訴え頭に残る。

本当は、悲しく残酷で陰鬱な話でも知識を入れる事が正しいのかもしれない。とにかく正しい知識が正義なのだと。

ただ、残念なことに人間の記憶の構造はそうなっていないと思う。興味の持てない話を覚えられる人少ないと思う。

今回のイベントは不謹慎ともいえるが大胆に、「愚かさ」をコメディにするという試みが行われたと感じた。

ジンギスカン作戦」で爆笑、「とにかく若くてやる気のある奴」で爆笑。これらのパワーワードと共にそこに至る詳細もセットで脳に刻み込まれた。

配信はとても楽しいものだったし、よりクリアにアジア太平洋戦争の経緯を理解することができた。この企画はとてもすごいと思う。悲壮的でも過度に歴史を責めることもなく、観客も共犯関係をもって戦争に向き合うための基礎をインストールさせた。

とてもすごい企画だったと思う。

日本人として生きる上で日本の歴史の財産を受け取る以上のは負債も受け取らないといけないと私は思っている。

そして、この愚かさを教訓として同じ失敗をしないようにしていく責任も日本人にあると思う。

この企画を大成功させた登壇者の御三方と上田さんをはじめとしたゲンロンのスタッフに感謝したい。